〜爺ぃとのお付き合い・・其の2〜

  辿々しい乍らも電話で話が出来るようになっていた当方は、爺ぃと離れている間のコミュ ニケーションは電話で行っていた。
通じていない様な感じも半分くらい有ったが、仕事の 内容でもないし、近況の一部でも伝われば御の字だったので、こうして行くウチに、何を話し たい、何を伝えたいと言う欲が出てきた。
  トレーニングの主流は、専らテレビ映画などの字幕スーパーに頼る事が多かった。映画の 字幕には、英語と中国語の表示が出ているものが殆どで、それを見て英語が差していると思しき 中国語の漢字を書き記し、翌日誰かに読んで貰って、「音」としてメロディー感覚で言葉を覚えた。

  西安維修站(サービスステーション)の開設時、オープニング後の応援で、西安に3週間程 駐留する事になった。丁度その頃、爺ぃは田舎の新疆へ帰る途中に、西安に寄ると言い出した。
  広州以外の土地で会えるなんて考えもしていなかった当方は、来たらホテルに泊まるよう薦めた。 中国のホテルには、大抵ベッドが2つ有る部屋なので、1人でも2人でも問題なかったからである。
(実際に1人分のチャージで2人宿泊可能な事を知ったのは、かなり後になっての事。 それまでは内緒で泊まっているつもりだった。)

  爺ぃの出発が実現するまでかなり時間が掛かった。やっと来たのが、当方が西安を離れる 4,5日前になっての事。
  爺ぃにとって西安は、単独渡航最初の土地。知人も多く爺ぃなりに色々思惑があったので、 滞在は長くなるようだった。
  とりあえず、最初は当方が使っていた希来登酒店(シェラトンホテル)で一緒に過ごす事に なった。爺ぃは、同じ5星ホテルで仕事はしているものの、所詮は中国の一般老百姓、初めての 経験だったようで、朝の洋風な食事も、豪華なロビーで客として振る舞う事も、初めてだったと言う。
この上なく楽しんだようで、懲りずに催促した甲斐が有ったと言うものだ。

  後で判った事だが、爺ぃの新疆行きを決心付けた原因は、花園酒店での出店が、経営者の中国 返還によって奪われた為であった。花園酒店は、香港のリーガーデンが経営する形でオープンし、 その営業権利は10年間。その権利契約が1994年に切れた為、従来爺ぃを発掘して下さった 董事長は香港に帰る為、引き継ぐ気のない次の董事長の采配により、商場事態を大改装すると言う 計画が上り、部外者であるテナント関係者達が、いの一番に切られたのである。
  爺ぃはショックで気を落としていたらしい。当方と一緒にウロウロする事で、かなり気を紛ら わす事が出来たと言う事だった。
  その事をその時点で知ったとしても、当時の自分ではどうしようもなかっただろうし、 今一緒になって開拓中なので、結果オーライだと思っている。

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  この時一緒に過ごした事が、今後のきっかけにもなるのだった。
何かと言うと、出張に出掛ける場所によっては、爺ぃも連れて行く事にしたのだ。
出張計画が出来上がると、まず爺ぃに連絡し、都合が合えば、まず上海に来て貰う。そして一緒に 出掛けるのだった。当然費用は全て当方のポケットマネー。宿泊は、先に言ったように、2人でも 同額なので、何ら負担は掛からない。
  毎回が長期間になる出張なので、休日は彼に色々教えて貰いながら、適当な所へ出掛けたり した。平日の日中は仕事が有るので、爺ぃは一人で知人を尋ねたり、初めての所を散策したりして、 当方に様々な情報を提供して呉れた。
  その集大成が現状であって、起業する要因でもあり、これをどうやって芽生えさせるかが 今一番の課題になっている。



  1996年3月。深センへ出張した。人使いの荒い会社だったので、当然1カ所だけの出張 などあり得ない。数カ所絡めて広州に入り、深センを最後にして上海へ戻る計画だった。
  当然広州では爺ぃと会う。でも、花園酒店は既に中方の経営になり、彼の職場ではない。 爺ぃは、4年間の垢を落とす為に、暫くは定着した仕事に就かず、彼の予定でウロウロする事が 続いて居た。
  その頃、中国人の深セン行きは今のように自由ではなく、公安に手続きして、許可が下りな ければ行けなかった。でも、広州で人関係作りにも念を入れていた爺ぃなので、公安庁の老板に 頼んで、スグに手配が出来た。
  広州入りして会った時、何となくどこかしんどいような感じに見えたので、病院で診て貰う よう薦めたが、ゆっくりしていれば良いみたいに言うので、そのまま深センに一緒に向かった。
  深センには、爺ぃが最初にここに来た時に知り合った小姐が居た。始めてきた当時、爺ぃは 路上で絵を売り、彼女はその横でアクセサリーを売っていた。なので、爺ぃのがんばりは、彼女 が家族以上に良く知っていて、爺ぃの人柄について、それは事細かに教えてくれた。本人が照れ くさくて言えそうに無い事も、彼女なら蟠り無く言って呉れる、第3者の証言って訳でもないが、 その内容は、信じても疑う必要のない事が多かった。

  自分自身の目を信じて3年程付き合って来たものの、全て爺ぃと直接的な事ばかり。この時に 出会った彼女のおかげで、自分の自信が確信に変わって行くのを覚えた。これまでにも、西安、 北京に於いて、爺ぃと同年代の友人達から、色々訊いては居たものの、彼らと世代が違う人から も、全く同じ方向性で話しを訊かされると、更に信憑性の高いものとして受け取られた。第一に 彼女と当方はほぼ同年代だったから尚更だったのだろう。
  言い忘れていたが、彼女はその時、深セン晶都酒店3階フロアのレストラン経理になっていて、 彼女自身も、"自分の2倍も年上の人がこんなに頑張っているのに、若い自分が恰も全てを見透か したような事を言ってはいけないと思って頑張ったのだそうだ。
  いつかそのサクセスストーリーを訊きたいと思いながら、未だに訊けず仕舞いで居る。

  爺ぃと一緒に行動する事で、色んな人に出会って中国を知ったり、中国人を知ったり出来る。 しかも、中国人を媒介して見る事が出来るので、フィルター無しに見る事が出来て、善し悪しも、 酸いも甘いも、なんでもがストレートに情報として入ってくる。
  中国史を知らなくても、中国経済の仕組みに詳しくなくても、中国人を知る事で、それらは 自ずと後から付いて来る。幾ら中国の過去や歴史に詳しい博学な人間であっても、今の中国人と それらを一緒にする事は出来ない。それが証拠に、中国の全てを知らずに渡ってきた日本人が、 中国人と親密に行動した事で、一人歩きできるまでに成長できたのだから。
  日本と日本人同士が、幾ら輪になって高貴な討論をしようが、中国人と組んでいる人間には 叶うはずがない。当方自身、それに関しては自信を持てるようになって行った。ただ決して驕る 事はせず、耳を大きく傾けながら・・・。
  爺ぃ曰く、

   「博学な学者きどりの人間は、評論家にはなれても、その"主観武断"な
   考えは、柔軟性を伴わない限り、評論家の域を脱しないんじゃよ」


  この言葉は自分自身が常に気に掛けている言葉だ。「主観武断」と言う言葉は、紙に書いて デスク脇に置いてある。語るに落ちたりする事の無いように、いつも柔軟な気持ちで居られるようにと・・・。
(主観武断:己の思想を変える事が出来ず、終始自分本位な考えに固執し、挙げ句は驕る様を表す言葉)

  色んな意味で有意義な深セン出張だった。(一応仕事も・・・ね)
まだ様子が今一つのような爺ぃに、「僕が帰ったら、スグに病院で見て貰え」と、これだけは 何度も念を押して深センを後にした。その後に信じられない事態が起こる事など知る由もないまま。


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                    〜爺ぃとのその後のお付き合い・其の3〜に続く。



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