〜爺ぃとのお付き合い・・其の1〜

  初めての出会いのおかげで、1ヶ月もの長期間が非常に短かった。そうしているウチに 出張期間も満了となり、帰国の日を迎える。
  前日のウチに、「明日帰るからね」とお別れを言い、「又来られるのか?」と言ってい るような気がしたので、"半年後再来"と書いてお別れし、「給我写信」と書き記したので、 スグには判らなかった当方、例の如く絵も描いて呉れたので、首を縦に数回振りながら応 えた。
  こうして、通訳無しでの生中国人との交流は始まり、8割方判らないながらも、レッス ン1を終了(?)したのでした。
翌日帰路に着く時、国宝怪獣熊猫ゴン殲滅は出来なかったものの、仲良くなっての帰国とな り、又来てもどこか安心出来る町になって仕舞ったのでした。
  後に聞いた話だが、爺ぃはこう言う約束を数百回もしていると言う。色々な国の人達と。 でも、実際に手紙をくれた人はその中の数人。しかも「又来るね」と言いながら、本当に来 て会ってくれた人なんて、更にその中の極々僅かだったと言う。

  帰国後、約束していた手紙を送ったが、返事は来なかったのできちんと届いたかどうかは 不明だった。
  北京、広州、上海は会社の拠点的存在なので、かなり多いサイクルで、余所への訪問過程 で寄る事も含めて、行かなければならない地区だった。従って、大陸ホローの要である広州 へは再度行く事になる。
  最初の出会いから3ヶ月程過ぎた頃に、その機会はやって来た。それまでは新規開拓で、 成都,重慶,西安,武漢と飛び回り、行くと3週間前後も滞在が必要だったので、色々考え る時間は殆ど無く、ただ、行く先々で言葉が違う為に中国語力の進歩だけがなかなか進まな い事に、少々焦りを感じていた・・・。

  広州に到着すると、白雲空港には公司の担当経理等が出迎えに来ている。彼らに連れられ、 前回と同じ花園酒店へ。全ての手続きを終えて部屋へ向かう。果たして怪獣熊猫ゴンは居る のか居ないのか。

    居た!!

  正直言って確信など無かった。
中国語が殆ど出来ない当方は、居る要らない、判る判らない、などの応答しか出来ず、 「ずっとここで実演しているのか」などと言う高度な会話が出来なかったので、結局、前回 はその事を確認出来ず仕舞いだった。ただ、「又来られるのか?」と言う質問が有ったので、 その言葉だけが頼りだった。全く心許ない「頼り」だが・・・・・。 しかし、それもいい加減な交流上で、自分勝手に理解した事だったので、決して確信と言え モノでは無かったのだ。

  前回と同じように、仕事を済ませてホテルに戻り、報告などを済ませた後ロビーへ向かう。 簡単に挨拶を交わして手紙の事を聞いてみる。「少し話せるようになったようじゃないか」 と言われ、何となく嬉しい気分になる。

  2度目以降の爺ぃとの出来事は、沢山有りすぎてどうしようもない。その中でも、個人 的にセンセーショナルだった事が、爺ぃの家に招待された事と、脳血栓で倒れた時の事だ。 それらを中心に、お話ししてみたいと思う。

  1994年1月からの上海、広州出張では、帰国予定日が2月10日であった。広州で 気が付いたのだが、その年の2月10日は春節だった。
そう言う時期に広州から上海へ 戻る事になったのだが、正直言って、それでどんな影響があるかなど、全く知る良しも無い 当方は、チケットもきっちり取ってあるので問題ないと高を括っていた。 見送りは公司の連中が段取りして呉れるので、公司の好意で爺ぃも一緒に載せて来て呉れた。 皆に普通に送って貰い空港に立った。
  自分ではもう慣れた積もりで居たもので、適当に御礼を言って皆と別れた。いざ、いつも の入り口へ向かうが、信じられない数の人達が、将に蟻のように群がっている。その中でも 何とか確認できたのが、"上海便は○○番入り口で手続き"の表示。「他の所!?」と、少々 困ったと考えながらも、それらしい所へ向かう。その目的地は5m幅程の通路の先に有った。
「これはどうやったら行けるのか・・・?」そう思わざるを得ない程の、半端ではない数の人 集り。
すると、後方から誰かが呼び止めるので、振り向いてみると爺ぃだった。

   爺ぃ:「剛剛想走開机場。我随便回頭看這情況,覚得不是一般的状態。
        肯定添イ尓麻煩
(帰り掛けたが、この様子で は中に入るのが大変じ
        ゃ無いかと思って戻ってきたんじゃ)
。」
     当方:「・・・ ・・・」

  無言だった。正直困っていたので、この場面には感動した。でも、課題は解決して いない。目前のこの人集りはどうやればクリアできるんだ。。。まだ純粋な日本人気質 だった当方には、どう考えてもこの通路内に寿司詰めになっている人混みを、攻略する 術など考え付く筈はなかった(写真がないのが残念・・それはもうほんと凄かった!)。 突如、爺ぃにフライト時間を尋ねられ、時間がない事を知った爺ぃは、

   爺ぃ:「跟我来!(ワシに着いて来い!)

  「???」となっている当方から、大きなスーツケースを2個とも鵞掴みにすると、 「譲一下,譲一譲,譲一譲〜!(どいて、どいて、どいて〜!)」と大声を張り 上げながら、驚く老百姓の中を、将に「突進」し始めた。その後を申し訳なさそうに着 いて行ったが、信じられないくらい物の見事に通り抜けたのだった。
  そこで混雑の事情が理解できた。通路先に検査機が有り、ここを抜けて奥のチェック インカウンターに行く段取りになっていたようだ。ここにタムロしていた連中は、彼ら も良く判らない情況で、風よけにもなるので座ったりしていただけだったのだ。数人が スーツケースをぶつけられて居たが、帽子を被り100kgくらい有る図体の、見る からに老板風の爺ぃに対して、文句を言う者は一人も居なかった事には、何か中国の妙 なしきたりを垣間見たような気がした。
  しかも、大声で突進してきた勢いでか、検査機にも通さずそのまま奥まで入って来ら れた。検査しなくて良いのか?と爺ぃに尋ねたが愚問だったようだ。にっこり笑って、 「中国ではそんな事気にしない。通れたじゃないか」
  正直言ってその時は、「これから何年、こう言う慣習の全く違った土地で仕事する のかな?やっていけるだろうか・・・」と思ったくらい、凄まじい数の人集りと、その解決 手段だったのだ。

  上海に到着後、春節前夜の爆竹で、これまた凄い経験をした。
宿泊していたポートマンシャングリラホテルは、上海市の真ん中にある。当時、一般市 民がまだまだ市内に住んでいた上海では、春節の爆竹禁止などクソ食らえ、夜になると 約1時間続けて鳴らされた。その音は、爆竹なんて言葉で片づけられないものだった。 シンガポールや台湾の春節を、TVで見た事があったが、凄まじいながらもその音は、 「バン・バン」といった感じでリズムがある。でも上海で見て聴いたそのサウンドは、 リズムも抑揚も無く、「ごぉぉぉーーー」と唸る一つの連続した音なのだ。
26階から見下ろす眼下には、町ではなく、通りも家屋も区別が付かなくなった、赤い煙 の海が広がっていた。
  先に経験した春節大移動騒動もそうだったが、春節前夜祭の凄さも強烈だった。
まだ渡航して1年に満たない超純朴なサラリーマンが(異論有るかも・・・(^^;)、中国 にその底力を見せ付けられた日々の連続だった。
  まだ渡航して1年に満たない、1994年2月の事だった・・・。



  4回目くらいに広州へ行った時、爺ぃから、「家に来ないか?」と誘われた。正直言 うと、どうしようか迷った。でも春節の件もあったし、自分の目を信じて彼を信頼し、OK と応える。
  約束した日が来て、花園酒店の現場を息子に任せて、タクシーで番禺にある爺ぃの 自宅へ向かう。この時、将来の自分が頻繁に行く場所になるなんて、考え及びもしなかった。

  到着後、部屋で少し話をしているウチに、その時点で自分で交流できる力には限界が 有った事と、慣れない中国生活や仕事の疲れも相俟って、何だか眠たくなって来た。 その様子を感じ取られて仕舞ったようで、爺ぃは自分の部屋に案内し、少しベッドで横に なるよう薦めて呉れた。
  兎に角かなり疲労が溜まっていたので、とりあえず横になって見るつもりが、2時間程 眠り込んでしまった。起きたら夕食の用意が出来たと言うので申し訳なく思う事仕切・・・。
  晩飯を奥さんと一緒になって作って呉れた。中国では男も料理をすると言う事は、上 海のマネージャー宅や、その頃交流のあった腕平南路の上海人知人宅へ行った時に見て 知って居たので、もう違和感はなかった。その時に爺ぃのエプロン姿を写真に撮ったり しておふざけして、かなり楽しく時間を過ごした。 
エプロン姿の爺ぃ。1994年撮影

  この年の5月には、上海に事務所が立ち上がるので、その時は上海に呼んで、 どこかに連れて行って上げよう。毎日20時間もホテルのロビーに居て、仕事ばかり しているそうなので、丁度暖かくなる頃だから、息抜きに良いかもしれない・・・。
その時は単純にそう考えていた。 


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                    〜爺ぃとのその後のお付き合い・其の2〜に続く。



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