〜羅成驤画伯との出会い〜

  改まって「羅成驤画伯」と書くと、話をスムーズに進められない感じがしますので、普段使っている 「爺ぃ」と呼称させて戴きます。

  1993年6月末、5月2日から上海に来ていた当方は、中国に来てまだ3ヶ月目なのに、会社の 指示で広州へ行く事になって居た。
上海に来た日を克明に覚えているのは、奇しくもF1レーサーのアイルトン・セナがレース中の事故で 亡くなった日が5月1日、その翌日が出発日だったから。
仕事なので仕方がないが、聞くと頃によると広州では普通話が通じないと言う。広州の広東話は、標準 語の普通話とは、全く別の言語と思って言いくらい違うと言われているので、英語も中国語も出来ない 私は、色々な不安を抱えながらひとり広州へ向かった。
  会社が手配してくれたホテルは、幸い 「花園酒店」と言う5 つ星の豪華なホテルと聞いていたので、とりあえずは安心できると思って腹を決めた。
  到着してみると、「豪華なホテル」なんて言葉では片づかない、見た事もないくらい大きく広いロビ ー、広いまま吹き抜けになった天井、何につけても高級感のある空気、・・・何を取っても、「こんな所っ て泊まって良いの」としか考えられないくらい立派だった。

  チェックインして、滞在1ヶ月間の仕事やら自分の任務をまとめるべく部屋に向かう。エレベーター ホールはその大きなロビーの右奥で、かなり進んだ所にあった。
私の重たい荷物を台車に載せ、先 導してくれるボーイさんの後を付いて行きながら、やっとエレベーターホールに差し掛かった頃、ふと 気になった「商場」と呼ばれる中国のホテルにあるお土産屋コーナー。その正面で何やら怪しげな絵を 描いている、えらく丸々と太ったおじさんが居た。それが爺ぃだった(当時200斤100kg)。

  その日の仕事を終えた・・とは言っても挨拶程度だけだったが、兎にも角にもロビーの絵が気になっ て気になって仕方がなかった。絵が気になったのか、それとも絵描きが気になったのか、その時は判ら なかったが、少し後になってこの出会いを考えると、丸々と太ったおじさんの方だったようだ。先に夕 食を終え、とりあえず1日の報告を済ませた後、ゆっくりと絵を見に行く事にした。

  他の宿泊客も、当方同様ゆっくりする時間になっていたようで、昼間と違って人集りが出来ていた。 その中国国宝パンダに似たおじさんは、何やら見た事もない大きな工具で、煙を立てながら絵を描いて いた。時々先の方で火もたち昇るこの画法が何なのだろうと考えるも、当時言葉が出来ない当方は、今 のように好き勝手に尋ねる事も出来ない訳で、西洋人が「OH〜!」と歓声をあげたりしているその様 子を暫く眺めながら様子を窺っていた。

  絵は出来た作品も大小様々飾って有って、それぞれ値段も貼ってあった。掛けてある絵の価格は、3 00元〜1000元と結構な物。高いのか安いのか?芸術品は値段があって無いような物・・・等と色々 考えながら見ていると、傍に絵の説明が置いてあった。 『火筆画』。ふ〜む、 火筆画とは良く言ったもので、道理で火も出る煙も出る訳だ。とりあえずこの正体不明の絵の名前はこ れで判った訳だが、当時描いていた作品は布地に描かれた物が多く、あんなに赤くなった鉄筆で、どうし てキャンパスに穴が空かないのか、見れば見るほど疑問ばかり浮かんでくる。

  仕事に行く時も食事に行く時も、帰ってきても必ずエレベーターに乗る訳で、ここのホテルでは必ず 爺ぃの前か横を通る構図になっている。最初は見ているだけで過ごしていたが、1週間くらいしても未 だ居るので、定着している人なんだと思うようになった。しかし商場の入り口部分、薬屋の前の柱脇に 臨時的に出しているように感じて居たので、いつかは居なくなるのだろうとも思っていた当方は、意を 決して1幅買う事にした。今では考えられない事だが、当時の当方は何も話せないために、値段交渉す る事が出来なかった。表示価格680元の鯉の絵を買う事にして手に取って眺めていると、熊猫さんは 何やら色々言いながら620元にして呉れた。
この事は今でも時々思い出しては、「せこい!」と言ってやります。(^^
この絵は今も保管して持っています。

  買った後、部屋で広げて眺めていると、何か色々言っていた事を思い出した。「確か名前がどうの こうのって言っていたよな」。
空いた所を指差しながら、「なまえサービス」って下手な日本語で言って居たので、ここは一つ名前を 書いて貰おうと考え、"ここに名前を書いて下さい"の中国語の勉強に入った。

      「請在這里写我的名子」

今でも鮮明に覚えているこの文章(その頃の当方にとっては、超長い文章なのだった)。中国語の勉強 をしていない当方は、旅行用の辞書を捲って捲って、自分で割り出したこの文章。
発音も四声も判らない儘、旅行用辞書に書かれた四声表記を頼りに、声に出して練習する事数十分、 いざ!これを「武器」に、国宝怪獣熊猫ゴンに勝負を挑むのだった。

  客が絵を持って降りてきたので、何事かと思ったのかどうか?怪獣熊猫ゴンは、心なしか怪訝なご 様子。
[よーし、言うぞ」とタイミングを計りながら、心の中で「請在這里写我的名子、請在這里写我的名子」 と繰り返し繰り返し復唱しながら、巻いた絵を手にウロウロする事数分、すると、怪獣熊猫ゴンの方か ら何か言い出した。
もう時間稼ぎの余裕など全く無い。ええ〜い、ままよ!(>o<;

      「ちん つぁい つり しぇ うお だ みんつ・・・」

絵を差し出して、空いた所を指差し、結構スムーズに言えたぜ!とご満悦な当方とは裏腹に、営業スマ イルを通す怪獣熊猫ゴン。結果的には広げた絵と指差しで判ったのですが、「田中讓先生恵存」と名前 を書いて呉れた。
後で聞いたら「対不起。那時説話完全聴不明白(ごめん、あん時ゃ何言ってるのかじぇんじぇん判らん かったよ)」と言われました・・・玉砕だったんですね。(T_T



  絵を買ってからは、エレベーターを行ったり来たりする時の挨拶が日課になり、時々呼び止められて、 爺ぃは自分の横に当方を座らせて、漢字で書いたり絵で描いたりしながらの交流が始まった。これが爺ぃ と当方との会話の始まりだった。一応知っている単語が幾つか有ったので、爺ぃの話す言葉が広東話では 無いと言う事が何となく理解できた。

  ある日、爺ぃが使っていたヘッドホンステレオの調子が悪いと言うので、仕事柄見て上げると、本体が悪いのではなく、ヘッドホンコードがプラグの根本で切 れ掛かっていた。持って来ていた部品が有ったので、良さそうな物を一つ上げた。仕事で部品なども持っ ていたので、ヘッドホンも持参していたのが意外な所でも役に立った(・・とは言うものの会社の資産です が、中国で上手くやるためのプロセスと言う事で、一応投資です・・・ね。(^^;)。
  帰国したら早速7月に向けて暑中見舞いを出さなければならないので、広州に居ながら図案を描き上 げた。ふと爺ぃにも一枚描いて渡そうと思い、無謀にもプロの絵描きに自作図柄の原画をプレゼント。 此処にはないですが、このシリーズの生絵なので、 A4サイズの原画です(当時はペン描き白黒で、柄はスクリーントーン貼り。画材一式は、中国の何処へ 行くにも必ず持って出ていました(画材:Gペン、製図用インク、CARAN d'ACHEの18色水溶 性色鉛筆、A4上質紙、修正液、鉛筆数種、ステッドラーの消しゴム、スクリーントーン20種))。

  横に座りながら、時々相手にするお客(時々じゃあ駄目ですよ!(~_~;)との会話を聞きながら、自 慢じゃないけど音感は結構良い方なので、音で会話の雰囲気を覚えたのか、最初に出会ったこの1ヶ月間 で、結構話せるようになっていた自分に、上海に戻って暫くして気が付くのでした。

  生まれてこの方、中国語と言うものをきちんと勉強した事がない当方、敢えて言うならば、爺ぃは 当方にとって中国語の老師でも有るんでしょうね。


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                    〜爺ぃとのその後のお付き合い・其の1〜に続く。



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